短いながらも深い、ジャパニーズウイスキーの歴史とは?

★ペリーと共に日本にもたらされたウイスキー

ウイスキーの世界的なコンクールで高評価を得るなど、ジャパニーズウイスキーに対する注目が集まっています。世界5大ウイスキーの一つに数えられるだけに、このことも当然と思われるかもしれませんが、他の4つの産地が「西洋」であることに対して、日本だけが「東洋」。そして他と比べて、ウイスキー造りの歴史は非常に浅いものでしかないのです。

1853年に来航したペリーは神奈川県浦賀沖に来航、現地の奉行や通訳を艦内で歓待した際にウイスキーを振る舞ったとされています。この奉行や通訳が記録上、最初にウイスキーを口にしたとされる日本人。ペリーは時の将軍・徳川家定に対してもウイスキーを樽で献上したといいますから、ペリー来航が日本とウイスキーの最初の出会いだったといえるでしょう。

しかし日本人には馴染みの薄いウイスキー、その後しばらくは日本に居留する外国人や物好きな日本人のために、ごく少量が輸入されていたに過ぎません。

★ウイスキー造りのために、スコットランドに渡った日本人

日本でも本格的なウイスキーを造ろう、こんな動きが出てきたのが明治の末期。
洋酒造りの先端企業だった摂津酒造はウイスキー造りの本場・スコットランドに、社員を派遣することにしました。そこで、白羽の矢が立ったのが竹鶴政孝。現在の大阪大学で醸造学を修めていた竹鶴は現地の大学で学びつつ、本場の蒸溜所で実習を積み、ウイスキー造りを修得して帰国しました。しかし折悪く世界は大恐慌の真っ只中、資金難から摂津酒造はウイスキー造りの計画は中止することになります。

そんな竹鶴に目をつけたのが、ウイスキー造りを目指していた現・サントリーの創業者・鳥井信治郎。京都府山崎に開いた蒸溜所でウイスキーの製造をスタートさせます。しかし、それでは満足できなかった竹鶴は理想のウイスキーを求めて北海道へと移住。現在の「ニッカウヰスキー」を創業することになるのです。

★気軽に飲めなくなった分、高価買取に期待

サントリーがウイスキー造りを始めた地、山崎。そしてニッカウヰスキー創業の地、余市。
これらは今でも両社の蒸溜所としてウイスキーを造り続けていますし、その名を冠したウイスキーは世界的な知名度と人気を獲得しています。

しかし、人気が高まるのも良し悪しで……価格は高騰。以前のように気軽に飲める銘柄ではなくなってしまったことを嘆くジャパニーズウイスキーファンも多いのです。

一方でこれらは高価買取を狙えるチャンスでもあります。「ずいぶん昔にもらった余市や山崎があるんだけれど……」という方は、ぜひ当店にお問い合わせください!
余市が角瓶だったり、山崎のラベルに「従価」「特級」「760ml」の文字があれば……ちょっとびっくりする価格がご提示できるかもしれません。

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