2019年3月11日
昔みたいに大股ではなくなったけど
昨日イーストウッドの新作、「運び屋」を見てきました。
私、クリントイーストウッドが大好きでして、過去の監督作品やドン・シーゲルや、セルジオレオーネにおけるイーストウッドも、吹き替え版でイーストウッドの声を演じる山田康雄さんも大好きなのですが。
クリントイーストウッドの特徴って、生と死だったり、善と悪と言った二元論を軽くまたいでいくその大股っぷりにあると思うのですが、(『ペイルライダー』とか『許されざる者』とかマジで半端ない。)白と黒とか、精神と肉体と言ったあらゆる二元論を宙ぶらりんにして無効化してしまうなんというか、『凄み』がさく裂するので、それに浸ってしまうのですが、
イーストウッドのパターン
めちゃくちゃ傷つく→もっと痛めつけられる→自分の大事な人が傷つけられる→ブチ切れる→一瞬で勝つ。
というのがあると思っていて、ブチ切れたらもう一瞬で勝ってしまうし、ブチ切れた途端に生と死だったり善と悪を乗り越えてしまうのです。だからジャッキーチェンが、敵を討つために、努力して強くなって、いざ敵を討つクライマックスは、勝つか負けるかっていうサスペンスであるのに対して、クリントイーストウッドのクライマックスというのは、ブチ切れるその瞬間のことで、それはもう、決定的な出来事なので、勝ち負けというサスペンスが成り立たない絶対的領域なのでもうその瞬間に勝負がついているという。
go ahead make my day やってみな、いい日になるぜ
というダーティハリーの有名なセリフが物語るように、冷静な狂気、狂った冷静さを感じさせます。
そんなことを想いながら『運び屋』見てきましたが、イーストウッドが運転するボロボロのフォードをとらえたヘリコプター撮影にずっと酔いしれていたいと願わずにいられない至福の時間がそこにはありました。しかし、なんというか、強すぎる。かつてのマッチョ的なイーストウッドの強さとはまた次元の違う器の大きさを感じました。なんつーこの余裕。なんつーこの気楽さ。オールディーズやジャズの麗しいアメリカが生んだ音楽とともにアメリカそのものを見せてくれる奇跡的な映画でした。
そんなわけで、こんなすげー映画はそうそうないと思います。